2012/04/05

Lextion1 キケンな出会いは無賃の香り

壁怜子というこの女性は、一事が万事「通常の人間には起こらないことが起こってしまう」類の人間だった。ブレーメンの街中をゆっくりと走るシュトラッセンバーン-すなわち市電の、窓に体を寄りかからせ読書に興じていた彼女は、高らかに響く検札の声を耳にして青ざめた。―奴らが来たのだ。よりによって、今日、この時間に。そして、これは個人的事情だが―こんな憂鬱な気分の時に限って。

慌てた拍子に本は手を滑り落ち、隣の若い男性の足元へ転がり落ちる。素早い手つきで拾った彼の手が、表紙の毒々しい老婆のドアップ、そしてその真ん中に位置する甲冑のイラストを見て一瞬動きを止めた。怜子はカバーもかけずに持ち歩いているくせに、その表紙を見られることで「変な趣味の人」だと思われるのが嫌だった。中身はただの推理小説だし、誤解させるような装丁が問題といえば問題なのだが。その思考が一瞬頭をよぎり、ろくにお礼も言わず彼女は本をひったくり、カバンへと押し込んだ。

「はいっ?持ってない?・・・ちょっと待ってくださいよ、あなた、いったいどのくらいブレーメンにいるのですか?・・・うん、半年?はっ、半年もいてずっと無賃乗車してたんですかっ?!」

怜子から見て10数席先に座る中東系の若い男女が、怒り狂う車掌を目の前にして肩をすくめているのが見えた。ブレーメンにいると、このような光景に出会うこと自体、珍しいことでもない。検札は不定期だし、そうしょっちゅう出くわすものでもないため、定期を持っていない類の乗客が無賃乗車することは日常茶飯事だった。

「半年間も・・・!ちょっと見逃せるレベルじゃないわね、あなたたち、罰金払ってもらうわよ!ええと、一人40ユーロづつっ」

怒りに任せて紙に書きなぐり、その男女に突き出す。そして、車掌は次の席から次の席へと移っていく。怜子はますます青ざめた。あろうことか、今日は11月1日。こんな時に限って、先月分までの定期しか持っていないし、急いで自販機に行こうにも、車掌をすり抜けて自販機に行くのは不可能である。しかもよりによって、今回は無賃乗車している乗客だらけだった。

「はっ、あなたたちもなの?!ちょっと、どうにかして!もう、みんな罰金払わせますっ」

今度は東欧系に見える子連れの中年女性に対し、車掌が紙にサインしているのが見える。怜子は自分がますます窮地に立たされているような気がして、意味もなくカバンの中をがさごそと探した。財布を引っ張り出し、何か挟まっていないか奥まで覗き見た。しかし、もちろん購入していないものは魔法のように現れないので、あるわけもなかった。それでもつい探してしまうのは、周囲への一種のパフォーマンスなのだろうか。自分は平気で無賃乗車するような、非常識な人間ではないのだ、という。一通り探した後で、怜子は今更になって、先月の定期ですら家に置いてきてしまったことに気がついた。もしそれが手元にあれば、ぱっと見せるだけなら誤魔化せたかもしれないというのに。いや、そうだったとしても上手く誤魔化すなんてことができるのだろうか。何にせよ、ないよりはあった方がいいのは間違いないのだが。

イライラと不安が最高潮に達し、怜子の頭の中で罰金40ユーロという言葉がゆらゆらと揺らめいた。40ユーロあれば、いったい何ができるだろう。まず、4日間10ユーロの食事が出来る。パン屋なら1週間通える。そして、あと10ユーロ足せば市電の定期が十分買える・・・だから絶対、払いたくない。いや、払うもんか、罰金なんて・・・でもどうやって?

怜子はつい激しく貧乏ゆすりをしていることに気がついた。貧乏ゆすりがあまりにすさまじく隣の席までを揺らすため、隣に座る男はつい振り返り、怜子をまじまじ見ることとなった。その瞬間まで怜子は気がつかなかったのだが、その男性はどうもアジア人らしい風貌をしていた。そしてその口を開いた時、それが日本人であることを知った。

「あの・・・すみませんが」

新入社員を連想させるような妙にきちんとしていて、清潔感のあるウールのコート、その首元から覗く白いシャツ。怜子はその「真人間であることの証明」かのようなこの男の容姿に、自分の人間的なやましさが責め立てられているような気分になり、具合が悪くなった。これ以上彼を正視し続けるぐらいなら、走っている車両の窓からガラスを突き破って外へ飛び出したい、そして自分が悪かった、と叫びたい・・・そんな衝動をぐっと抑え-それは吐きそうなのに吐けないでいる時と似ていた-怜子は左手で窓の枠をぎゅっと掴んだ。

「いきなりですけど・・・。もしかしてあなたも無賃乗車ですか?

怜子は相変わらず迫りくる吐き気と闘っていたが、その男の口から発せられたのは意外な言葉だった。男は、ただでさえ善良で快活に見える爽やかな顔立ちに、人間として見本とも思える眩しいばかりの笑顔を貼り付けていた。なのに口からこぼれでたのはいきなりの直球。これは、卑しい人間への一種の罰なのだろうか。

実際のところ、今、怜子は死ぬほど困っていた。困っていた、が、そうやすやすと「そうなんです。私無賃乗車なんですよー☆!」といって、この見知らぬ人間に自分の恥をさらけ出せというのか。よりによって、本国から8000Kmも離れたこの辺境で。相手は同国人なのだ。もしこいつが「海外生活ブログ」みたいなのをやっていたら日本人の恥として永遠にネット世界にさらされることになるのだ。ああ、なんたることぞ。

だが、車掌はどんどん自分の座る席へと近づいている。悠長に考えている暇も余裕もなかった。この男が助けになるのかもよく分からなかったが、この窮地を乗り越えるためとっさに頷いた。

「よかった・・・!困ってる人助けるの、大好きなんですよ」

男は艶々した皮製のケースから手早く細長い紙を取り出すと、機敏な動作て立ち上がり、その紙に日付の印字をつける。そしてその紙を怜子の手にぎゅっと押し付けた。

「自分、用心深い性格なんで、万が一のときに備えて定期の他にも回数券持ってるんです。」

怜子は内心、自分の人生に初めて起こった「運のいい出来事」にびくついていたため、収まったたはずの貧乏ゆすりを再開してしまっていた。そして抑えようと思えば思うほど、その足の揺れはひどくなってしまう。そのせいで車掌が彼らの席に来たところで切符を床に落としてしまった。拾おうとしてもどこか体が強張りすぎて上手く拾えない。そんな怜子を見かねたのか、男が代わりにその切符を拾い車掌へ見せた。しかし車掌は横目でちらっと見ただけで、彼らの席を通り過ぎていった。

そして、車掌が最後の乗客へ辿り着いたところでタイミングよく次の停留所につき、扉が開く。あまりに動悸が激しくなっていた怜子は、そのまま車両を降りてしまっていた。そして降りてから気がついたが、そこは何でもない所-すなわち、目的地である駅までは、彼女はまだ数駅乗っていなければならないということだった。

しかしさっきの検札の出来事であまりにも神経をすり減らしたため、また市電に飛び乗るのはなんだか気が引けた。しかし、このまま家に帰るには一度駅に行かなくてはならない。怜子は仕方なく駅の方角へ向かって歩き出したところで、後ろから誰かが呼ぶ声が耳に入った。息を切らす声とともに、背の高い男が怜子の横に並ぶ。嬉しくないことに、先ほど隣に座っていた男だった。うっ・・・追いかけてきたのか・・・。



「あの、勝手にすみません・・・僕、まだブレーメンに来たばかりなんですけど、一人だし、日本人の方に知り合えたのがうれしくて・・・」

なんだこいつ。日本人とつるみたければそもそもブレーメンみたいな片田舎にくるな・・・!といいたくなるのを玲子はぐっとこらえた。先ほど助けてもらった矢先、あからさまに邪険にするのもさすがに良心がとがめる。しかたないので。無気力にだが一応返事をすることにした。どっちにしろ、男は勝手にしゃべり始めている。

「しかも、あの、たぶん年齢も同じぐらいですよねっ!あの、自分、今週から語学学校通い始めるんですけど、まだ分からないことだらけで・・・でも、本当楽しみです!あの、お名前聞いてもいいですか!」

怜子はその時こう感じていた。あぁ、苦手だな、こういう人、と。やる気あるんだよね、まだ夢いっぱいのお年頃なんだよねー。そのうち全部幻想だってわかるよ、と・・・。

「・・・真壁です。」

「僕、鬼塚っていいます!鬼塚、英雄。えいゆう、って書いて、ひでおって読むんです。野茂と一緒の名前です。名前だけに、海外生活に縁があるみたいで・・・!

「ですか。」

玲子はサッカー派だ。

怜子は徒歩で駅まで辿り着くまでにあと何分かかるのか考えた。どうがんばっても5分はかかる。下手すれば10分。

「真壁さんは、ここに住んでるんですよね?それとも観光で?

「・・・あー、えっと、一応語学学校に通ってます・・・」

そうです。語学学校生です。本当はもうドイツに夏からいるんです。しかも、A2-初級コース2-を2回も繰り返す羽目になってるんです。しかも、ブレーメンにはこっちも越してきたばっかり。理由は―言えない・・・。

などといったインナーモノローグは決して玲子の口から飛び出ることはない。彼女の脳みそはこの勘違い男をどうやって巻くかで忙しい。

「そうなんですか。定期持ってないみたいなんで、てっきり観光客かと思ったんですが。自分もここに着いてすぐに定期買いましたし。」

怜子は第一、その話をしたくなかった。面倒だからだ。

「それでは、ドイツに来てどのくらいになるんですか?」

玲子は歩くペースを速めた。歩いているというのに、さっきの貧乏ゆすりが再発しそうだった。なぜだか分からないが、今はこの希望に胸を膨らませた青年とおしゃべりに興じる気分には全くなれそうになかった。人間には触れられたくない話題というものがあるのだ。

「・・・ごめんなさい、ちょっと用事があるので」

さきほどより歩くペースを上げると、ようやくぼんやりと駅の輪郭が見えるようになった。それにしてもこの男はしつこい。怜子と同じペースを悠々と、むしろ何の苦もなくついてきていた。

「僕、まだ知り合いも友人もいなくて、せっかくなので・・・」

怜子はだんだんはっきりとしてきた駅の姿に安堵し、シュトラッセンバーンのターミナルに向かって駆け出していた。あと数十メートル、そしてこのうざい男とは永遠におさらばだ!

今度お茶でも!

という捨て台詞とともに。

男が完全に見えなくなったところで、ようやくびんぼう揺すりをしたい衝動が収まったのを感じた。いくら助けてもらったとはいえ、今日は本当に気分が優れない。夢や希望にあふれた人間は玲子の天敵なのだ。ブレーメンの古典的な町並みを眺めながら、ゆっくりと進む市電の中で、怜子はそう一人ため息をついた。しかも、ずっと治ったと思っていたびんぼう揺すりの癖が再発してしまうなんて。そして、あの本の表紙をうっかり見られてしまうなんて-いや、二度と会わない人なら、それを見て私を変な人だと思ったっていいじゃないか。どうせ二度と会わないんだし。怜子はそう自分に言い聞かせたが、そうすっぱり考えることができないのが怜子でもあった。そのことを思い出すと、彼女はまたとんでもなくイライラしてくるのが分かった。彼女は自分を落ち着かせるためMP3プレーヤーを取り出し、イヤホンを耳に突っ込んだ。それにしても、なんて市電の進みはのろいのだろう。ほとんど静止画にすら見える町並みを見つめながら、彼女は足の震えがどうしようもなく止められないのを忌々しく思った。

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